Violin Sonata 「七夕ぁ?」 朝の静けさが残る菩提樹寮。 冷蔵庫から取り出した麦茶をグラスに注ぎ、口をつけようとしたその時、 幼馴染の一言に如月響也は間の抜けた声を出してしまった。 少し早めに起きた響也は、喉が渇き、何かないものかと食堂へとやってきた。 そこでまた何かを作っていたのだろう、キッチンに立っていた幼馴染の小日向かなでを見つけたのだ。 他愛のない会話をしていた時、ふいに彼女の口から出た言葉。 それが、 「みんなで七夕やらない?」 だった。 「何を言い出すかと思えば…」 グラスに入った麦茶を一気に喉へと流し込む。 喉を通る冷たい感触がたまらなく気持ちがよく、水分を欲していた体を潤していく。 「えー?いいじゃん。やろうよ、響也」 片手にアイスを持ち、スプーンですくいながら、かなでがのんびりとした口調で続ける。 「みんなでやったら楽しいと思うよー」 アイスを口の中へと放り込む、その甘さに嬉しそうに微笑みながら言うかなで。 響也は溜め息をひとつ吐くと、右手で髪をかき上げる仕草をしながら呆れ顔で彼女を見る。 「あのな…んなガキくさいことやってられっかよ。そもそも高校生の男連中だぜ? 誰が喜んでそんなこと…」 そこまで言って響也は顔を軽くしかめた。 一人だけいたな… 響也の頭の中に、うるさいくらい元気な一人の顔が浮かぶ。 仙台の至誠館高校の一年生。 地方大会で自分たち星奏学園と競い、今現在ここ星奏学園の菩提樹寮で共同生活中。 星奏学園一年生で同じアンサンブルメンバーである、水嶋悠人のイトコでもある水嶋新。 イベントごとが大好きで、大勢で楽しく騒ぐのも大好きな新なら、大喜びで賛成するだろう。 「…そもそも7月7日はとっくに過ぎてるだろうが」 頭に浮かんだ姿を打ち消し、響也は呆れた声で続ける。 今日は8月7日だ。七夕である7月7日は過ぎている。 「でも、旧暦なら今日が7月7日だよ?それに仙台ではこの時期が七夕祭りじゃない? 新君が七夕祭りの写真見せてくれたよ」 こいつがこんなことを言い出したのはやっぱりあいつのせいか… 響也は再び盛大に溜め息をつく。 新から見せてもらった七夕祭りの写真。 おそらくそれを見て、かなではみんなで七夕をやろうと思いついたのだろう。 「せっかくだし、みんなで楽しもうよ。親睦も深められるしいいと思うな」 そう楽しそうに話し始めるかなでを見て、響也は軽く微笑む。 「そうだな。ずっと練習ばかりじゃ息が詰まっちまうしな。息抜きも兼ねてみんなで騒ぐのもいいかもな」 昔から響也はかなでの楽しそうな笑顔に弱い。 かなでが楽しそうにしていると、なんとなくそれもいいか、という気分になってしまうのだ。 「で、どうするんだ?今から竹とか笹とか…短冊とか用意するのか?当日だと売っているものも、残り少ないん じゃねえか?」 「あ、それはね…」 「安心しろ。全て用意済みだ」 響也の心配にかなでが答えようとしたその時、食堂の入口から声が聞こえた。 「おわ!?支倉!?急に現れるんじゃねえ!!驚いただろうが!!」 ドアの前に立っている長い髪をした見覚えのある顔を見て、響也が軽く睨みつける。 「あ、ニア。おはよう〜」 その隣で、かなでが笑顔を彼女に向けた。 「お前はどうも驚き方が大仰なようだな。如月弟」 ニアはかなでに微笑み返したあと隣の響也へと不敵な笑みを向ける。 「うるせえ!ってか用意済みってなんだよ!」 「あーそのことか。今夜の七夕に関して、参加の可否が分からなかったのはお前だけだからな。 他は全員了解済みだ。昨日のうちに全て揃えておいたのさ」 「は?」 ニアの言葉に響也は隣のかなでを見る。 「だって響也、昨日、全然捕まらなかったんだもん。話をしようにも出来なくて」 かなでは悪びれもせずに笑顔を向ける。 「あーそうかよ…」 自分だけ除け者にされたことに何か言いたかったのだが、怒る気も失せ、響也は肩を落とした。 やろう、と言ってしまった手前、もうどうでもよくなっていた。 その日の夜 菩提樹寮の庭で行われた七夕祭りは賑やかで盛大だった。 庭にテーブルを置き、そこには様々な七夕料理が置かれている。 七夕を表現するように綺麗に飾り付けられたそうめん。 可愛らしい星の形をしたゼリーは、暑い夏にはとても涼しげだ。 他にもたくさんの料理や洋菓子、和菓子が並べられている。 これらはすべて、料理が得意なかなで、和菓子を作れるという八木沢雪広で作ったものだ。 「にしても、こんな立派な竹、よく見つけてきたよな」 響也が感心したように、竹を見る。 立派な太い竹には、笹の葉や緑や赤、黄色に白や黒の七夕の五色の短冊が飾られ、風に揺れている。 「うちにあった竹を1本、おじいさまが持って行っていいと言ってくれたので」 そう答えたのは水嶋悠人。 彼の家は古い神社だったのを思い出す。 「へー、すげーな。それで、これはなんなんだ?七夕に関係あるのか?」 響也が訝しげに見た先には… 立派な竹の傍に、木で出来た、たらいが置いてある。 そこには水が張られ、梶の葉が浮かべられている。 「なんだ、知らないのかお前」 響也の言葉に東金千秋が呆れたような笑みを作る。 「江戸時代には、こうやってたらいに水を張り、梶の葉を浮かべたんだ。織姫と彦星、二つの星を水面に映し、 2人が無事に会えるように願いをこめてな」 「七夕というのは、五節句の一つだったからね。昔は短冊ではなく、梶の葉に和歌を書いて願い事をしていた らしいよ。なんだかとてもロマンチックだよね」 千秋に言葉を受けて、榊大地が続けた。 「へー」 2人の話を聞き、響也は水面に揺れる梶の葉を見る。 「七夕の今の祝い方は、日本の古い行事である棚機(たなばた)と、中国の乞巧奠が合わさったものだ。 棚機は元は邪気払い。乞巧奠は元は機織りや裁縫が上達するようにという風習から生まれたものだが、 日本でも芸の上達を願って行われるようになったというわけだ。芸事…俺たちにはちょうどいい行事かもな」 千秋が空を見上げる。 これから星奏学園のアンサンブルメンバー、小日向かなで、如月響也、榊大地、水嶋悠人、そして今回は けがの為出場しない部長の如月律。 そして東金千秋率いる神南メンバー、東金千秋、土岐蓬生、芹沢睦。 星奏学園対神南の競う東日本大会が始まる。 全国優勝を目指して競い合うライバル。 既に対戦は終えているが、同じように音楽で競うライバルである至誠館高校。 八木沢雪広、火積司郎、水嶋新… 彼らの願い事がかかれた短冊が風に揺れる。 そして織姫と彦星が無事に会えるようにと願いをかけた梶の葉もまた、風に揺れる水面をゆらゆらと泳いでいる。 ライバルでありながら、音楽という強い絆で結ばれた縁。 七夕の夜、今も変わらぬ絆で結ばれた、愛する2人の伝説に願いを込めて… END…